共存と人とのつながり
こんにちは!フレックスです。
今日は私がふと感じたことを、これを見た方と一緒に考えれるような記事にしたいと思います。なので答えとか結果とかはないので、ご了承下さい。
皆さんはなぜ人間が共存できると思いますか?
ただただ同じ種だから?みんな人の子だから?
同じ種だからと聞かれれば、同じ種でも十人十色。事情はさておき、人や自分の命を絶つ事の出来る人もいれば、どんなときも冷静頓着で、仏みたいな人もいる。
みんな人の子だからと聞かれれば、劣悪な環境で育った子もいれば、裕福な環境で育った子もいる。
かといって、犯罪者を擁護するとか、環境の優劣で人と人を比べる事ではありません。
人は皆、法に触れたことはなくとも、何かしら罪を重ねて生きてるし、逆境と闘いながら必死に生きていたりもします。
私自身もいろんな人に沢山迷惑かけたし、心配もかけたりしました。間違いばかりで罪がないとは言えないでしょう。そして決して裕福ではありません。
それでも、間違いは間違いだと認め、裕福では無いけれど幸せを感じ、「いつか成り上がってやろう」と生きています。
大きなくくりの中の共存
世界中を見渡せば、私達より罪を背負って生きている人や、最悪な環境で生まれた人たちだっているでしょう。
そこには、社会もなく規律もないかもしれません。でもそんな人たちを蔑んだり、同情したりしてはいけないと思うのです。
なぜならその人の根底をを知らないから。例えばものすごい貧乏な人がいたとしましょう。その人を私達がテレビか何かで目にしたとします。
そしてその人のことを何も知らないのに「かわいそう」など思ったりしたとします。
もちろん人間なので目に映るものがすべてであり、そう思ったりもするかもしれません。
ただ、その人に何もしてあげられないのに勝手にその人のことを想像するのはそれこそかわいそうだなと思います。
じゃあ私自身はそんなこと思ったこと無いのかと言われるとそうではありません。
ただ、そのテレビに移ったその人もきっと私達と同じく、生きる希望を持って生きているだろうし、同情など求めてはいないと思います。
でも決して、知らんぷりするのでは無くて、大事なのは、どんな人もそれぞれの場所で何かしら戦って生きていると言う事を知る事です。
例えば、言い方が悪いかもしれませんが、金持ちと貧乏人は共存はできないけど、違う場所で、お互いを認識しながら生きていますよね。価値観も違うし、働き方も、目標としているものも違います。
このように、みんながみんな同じ場所では共存できないけれど、そういった意味で「共」に「地球上」と言う「大きなくくりの中」でなら「存在」してると言えるでしょう。
小さなくくりの中の共存
みんなが同じ場所では共存できないとは言いましたが、決して「孤独」という意味ではありません。
皆さんの考える「つながり」を想像してみて下さい。例えば、家族や友達など、色々あると思います。そして、その小さなくくりの中には皆さんと皆さんの想像した人が「共」に「存在」していますよね。
世界中の人たち全員が共存できないことと同じように、その世界中の一人一人が、やはり、それぞれつながりを持っていなきゃ生きていけないのです。
自分が間違いをして、許しをもらうのもつながっている人だと思うし、自分という人間を認めてもらえるのもつながっている人でしょう。
ときには、愛して愛されたり、その人を失ったとき悲しんだり。
先ほど例にした、どこかの貧しい国の人も、その周りの人たちときっとつながりあっています。
ですが、他人は他人、その人のことを知らなければ愛すことも愛されることもないし、悲しむことも悲しまれることもありません。
まとめ
人とのかかわりというのは難しいです。
密接かと思えば、画面の中でしか知らなかったり、隔たりがあると思えば、ひょんなことからつながりを持ったり。
たとえば最近だとSNSとかでも、よく知らない人なのにつながりを持ったりだとか、一目惚れでつながりを求めたり。
一口に共存とはいっても、やはり人の考えによって個人差はあると思います。
大きなくくりで見たときに、公平や平等がなければ共存は難しいけど、その隔たりがあるからこそ、「共存」といえるのかもしれないし、逆に小さなつながりの中にも、関わってほしくない部分が人によってはあると思います。
共存は人間にとっては難しいことであり、そのなかで知らず知らずのうちに生きています。
私の思う共存が間違っているかも知れません。でも、人は一人では生きていけません。
社会の中での存在も、つながりの中での存在も。